KJ-monasouken’s diary

昔「モナー総研」と言うスレ紹介ブログやってた人のブログ。いまはTwitterの活動がメイン。

日本はなぜ敗れるのか・ガキの使い

戦争の話をするとき、情緒的な話が多すぎると感じている。


情緒的に戦争を忌避するあまり、戦時は日本にとって完全に黒歴史であり、何も学ぶ点はない、と言う意見も多いのではないのかと思う。


確かに黒歴史には違いないが、戦時中というのは日本にとって国家として最大の極限状態であったがゆえに、日本人の組織運営の手法の問題点についてもかなり明確に浮かび上がった時代とも言えるのではないかと。そういう視点で見れば、色々と学ぶ点は多いのでは。


例えば、第三章「実数と員数」から。

形式化した軍隊では、「実数より員数、員数さえあれば後はどうでも」と言う思想は上下を通じ徹底していた。

員数で作った飛行場は、一雨降れば使用に耐えぬものでも、参謀本部の図面には立派な飛行場と記入され、また比島方面で○○万兵力を必要とあれば、内地で大召集をかけ、成程内地の港はそれだけ出しても、途中で撃沈されてその何割しか目的地には着かず、しかも裸同様の兵隊なのだ。

比島に行けば兵器があると言って手ぶらで日本を出発しているのに比島では銃一つない。やむなく竹槍を持った軍隊となった。

日本の最高作戦ですらこのような員数的なのだ。


(中略)



こういう状態でも「命令」は来る。だがその「命令」は”員数”を”実数”と仮定しての命令だからはじめから実行不可能だ。
それに対して、どのような実情を説明しても無駄なのである。


あるいは第11章の「不合理性と合理性」から。

 全ての組織で、その細部とその中での日常生活を規制しているものは、結局、その組織を生み出したその社会の常識である。常識で判断を下していれば、たいていのことは大過ない。常識とは共通の感覚(コモンセンス)であり、感覚であるから、非合理な面を当然に含む。しかしそれはその社会がもつ非合理性を組織が共有しているがゆえに、ごうりてきでありうる。

しかし輸入された組織は、そうはいかない。その社会の伝統がつちかった共通の感覚は、そこでは逆に通用しなくなる。したがって日本軍は、当時の普通の日本人がもっていた常識を一掃することが、入営以後の、最初の重要なカリキュラムになっていた。

(中略)

言うまでもないことだが、一つの伝統は気質を生み出す。そして気質を生み出した基盤と組織を生み出した基盤は、同じものである。同じものだから、この二つは一種の相補性をもって互いにプラスに作用し合える。しかし輸入した組織はそうではない。それは気質と組織を鋭い対立関係におき、その内部の人間に常に無用の緊張を強いるのである。

この記述を、以前紹介した「法令遵守」が日本を滅ぼすのP97の記述と比べてみると興味深い。

ところが、何か事件が起きた、事故が起きた、不祥事が起きたということになると、法令を遵守せよ、コンプライアンスを徹底しろということになります。○○法を守れ、○○規則を守れ、○○マニュアルを守れ、と言うことを色々うるさくいわれますから、それらに一つ一つ対応していかなければなりません。
 人の注意力には限りがあるので、具体的な法令やマニュアルに個々に対応していこうちおすると、結局、根本的なこと、基本的なことから注意が離れてしまうことになります。

書面上で見栄えのいいような目標を出させて、人の異動が激しいという客観的事情も考慮せず、成果が見えにくい地味な仕事を人に押し付けて自分の目標を達成させることを優先させる人間が得をするような制度とかを採用する会社を見てると、こういう批判はまだ生きてるのかなあ、とか思います。

ガキの使いはいつ見ても面白い。