KJ-monasouken’s diary

昔「モナー総研」と言うスレ紹介ブログやってた人のブログ。いまはTwitterの活動がメイン。

なぜ、人は多数決に流されてしまうのか(哲学)

「多数決」と言うのはむしろシステムの問題で実際には「場の雰囲気」に流されると言った方が良いような気もする。


なぜ、人は多数決に流されてしまうのか
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1095686471/

1 名前:考える名無しさん 投稿日:04/09/20(月) 22:21:11
人間て「多数決」に弱くないですか?
自分の意見とは違っても、より支持する人の多い意見に
流されてしまうような・・。
なぜなのでしょう。


2 名前:ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU 投稿日:04/09/20(月) 22:22:09
多数決が決まりだから


10 名前:考える名無しさん 投稿日:04/09/21(火) 12:08:19
全員一致でもそれが必ずしも正しいとは限らないのにね。

正しいというか、良い結論であるというか。
こんなこと言うと倫理学的な話になってきそうだけど。



13 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:04/09/21(火) 18:07:59
多数意見に流されるのは社会に適応しようという心理が
働いてるからだろ。たとえばウルトラクイズなんかで
○×問題が出されると自分の答えに自信が持てなければ
心理的に人の多い方に行こうと判断する。
あるいは自分の答えに確信があっても100人中99人が自分
と反対の方に流れれば自信が持てなくなって多い方に行って
しまうことも多い。
つまり人間が多数になると権威が生まれるということだ。
権威に人間は弱い。社会適応と権威は大きな関連がある。



22 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:04/09/25(土) 16:20:51
スレタイへの結論は>>13でいいと思う。

多数決は権威の一種であり、人は権威に流されやすい。
権威に人が流されやすいのは、人が生きることが社会的関係の中にあり
社会的関係の中にないことそれ自体が不安を引き起こす面があるからだろう。
不安が引き起こされるのは、社会的関係からあぶれた経験と、自己への危害の
経験の間に、経験的・思想的な結びつきがあるからだろう。明確に自己への危害と、
社会的関係からあぶれる経験を切り離すことは、人としての一種の成長と言えるだろう。

ただ、これを経験の問題として誇る者は、経験的に社会的関係からあぶれた場合でも
他の社会的関係に転がり込んで助かる場合があったから、ある社会的関係からあぶれる
ことを恐れてはいけない、とか、どうでもいい独りよがりな認識を誇っているだけだったりするが。

>>14
すごくない。変な開き直りはきもい。

>>15
クイズの正解は何によって決まるかを考えれば、
クイズの正解が真理なのは、どのような議論を展開したところで自明だろう。
クイズの場以外にも人はいるんだから。



30 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:04/10/28(木) 20:39:55
「なぜ」で始まるスレッドは、思い込みを基盤にして立てられてる。
あやういぞ。



36 名前:考える名無しさん 投稿日:04/12/26(日) 20:33:21
多数決で物事を決するようになったのは現代以降のこと。以前は優れた意見を
求めたり、責任者が決断を下すのが普通だった。多数が権威になるというのもおかしい。
昔は優れた少数者が権威だったし今もそうだ。


37 名前:考える名無しさん 投稿日:04/12/26(日) 20:48:16
多数の中に紛れ込むことが有利になるようなシステムが出来上がっていることを
みんな本能的に感じ取っているから



59 名前:ローカルルール審議中 投稿日:2005/04/27(水) 02:46:23
多数決でも何でも、決まり事が無いと先に進まんだろ。
そもそも、組織がワンマンのトップダウンだったら、多数決は成立しないし。
「多数決に流される」などという話に、一般性は無い。


60 名前:ローカルルール審議中[sage] 投稿日:2005/04/27(水) 13:41:11
>>59
今話してるのは何故少数派の方にいると不安になるのか、みたいなことじゃないのか?
一般性ありまくりな感じだが



84 名前:考える名無しさん 投稿日:2006/01/02(月) 01:15:06
敵は少なく、味方は多い方がいいからじゃないか。



90 名前:考える名無しさん 投稿日:2006/03/23(木) 16:40:20
多数意見に反対するための相当な根拠でもない限り
たいていの人は付和雷同や体制順応の空気に流される
のは世界中どこでも同じではないだろうか。
この点では映画「12人の怒れる男たち」が参考になる。



101 名前:考える名無しさん 投稿日:2006/05/27(土) 14:19:31
多数決って大体リーダー格の誰かが中心にいるよな?
鳥の群れみたいなものだろ。多数決で支持される案は
誰か頭いいリーダーが作った案。


124 名前:考える名無しさん 投稿日:2006/12/16(土) 00:18:54
大多数の人と反対意見を持ちそれを表明すると、
「なんで?」と詰問されることが多い。
大多数の人と同意見の場合には、詰問されることは少ない。


140 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2007/02/11(日) 15:49:15
多数決ってのは、「より多くの人が求める方向へ向かう」というだけで、
向かった結果が正しいかどうかは別の話

向かった結果が悪くても、「自分達の決めた結果だから」と割り切れればいいのだが、
日本人の場合、結果がダメだと、誰かの所為にしてしまう

小学校のときの学級会でも、実際に意見を持ってるのは数人くらいで、後はどっちでも転びそうだなあ、と感じたことがある。「多数派」と言うのは実体があるようで、統一された人格があるわけでもないし、厄介な存在でもある。


民主主義が多くの国で採用されているのは、多くの人間が賛成したことが望ましい結論であるから、と言うより、多数派が賛成した以上しょうがない、と言う言い訳というか「正当性」を持たせるためではないかと思う。


そりゃ、市場だって間違うし、有権者だって当然間違えると思うけど、間違えた決定をしたそもそもの責任は誰にあるか、と言う話なんでしょう。


民主主義を採用しているなら、一応タテマエ上は国民が決定権を持つことになるわけだから。