KJ-monasouken’s diary

昔「モナー総研」と言うスレ紹介ブログやってた人のブログ。いまはTwitterの活動がメイン。

「昔はよかった」

サルまん」の「ウケる風刺漫画の条件」について、こんな記述がある。

寸鉄人を鋭く刺すのが「風刺」ならば、その辺のジジイやババアを刺してもよさそうなものですが、卑しくも大新聞の政治面に描く一コマがそんなケツの穴の小さいことをしてはいけません。あくまでも<庶民>の側に立った<良識>あふるるものでなければ。


そんなわけで、<庶民>の<良識>とはいかなるものかと言えば、これがあなた、たった二種類しかないのですから笑いがとまらないとはこのことです。


1.権力は悪い
2.昔はよかった

この二つを押さえればもうばっちり。

「権力は悪い」についても思い当たる節はありますが、今回は「昔はよかった」について。


凶悪犯罪増加の誤解:三丁目の夕日のレビューが凄いです。
http://pandaman.iza.ne.jp/blog/entry/638149/

過去の誤解された日本で必ず典型例として取りざたされる「三丁目の夕日」ですが、
そのレビュー内容が予想通りというか凄いものでした。
そのいくつかを引用し突っ込みます。


>昭和30年代が懐かしい・・・いい時代だった・・・昭和30年生まれの私はそう思いますが、たまたまその時代を子供で過ごしたから、嫌なことよりもいい思い出、懐かしい思い出だけが残っているからかも知れません。しかし、終戦から10年経っており戦争のことも知らないで生まれた子供。隣近所の干渉はあったものの、現在のように凶悪犯罪の発生率は高くなく、検挙率も世界で1番だった時代。子供たちが安心して外で遊びまわれた時代だったのは間違いなかったと思います。・・・


最も過去の誤解された日本を端的に表している文章だと思います・・・・
当ブログの存在意義はこういう誤解を解くためなのですが、そういう「誤解」の鏡のような意見です。
あと子供を殺すのは現代はほとんとが母親をはじめとした家族です。昔も家族の殺害例は多かったですが、変質者や誘拐犯の殺害例も多かったです。「子供が平気で外で遊べた」というのは犯罪警戒意識が薄かっただけです。


<中略>


>昭和33年。東京タワーがまだ建設中で、東京の街中に路面電車が走り、舗装されてない道を車が走っていた時代の話です。 家に白黒テレビが来ると、近所の人たちが大挙押しかけ、家主が挨拶をし、みんなでテレビをみたり 冷蔵庫が来ると頭を突っ込んで涼をとったりとほのぼのした人々の暮らしが伺えます。 ゆっくりと時間が流れ、みんなが協力しあって生きていた時代がとても懐かしくその時代に憧れさえ感じます


この人ばかりではなく、まるでこの作品を昭和30年代当時のドキュメンタリーかなにかのような前提でレビューしてる人が多すぎです。
この作品はあくまでフィクションであり、SFみたいなものなんですが。
この映画を見て「我々、日本人が忘れてきた何かがわかった」とか言われてもね・・・
もっとも「人々が純粋で真っ直ぐだった時代」とかは間違ってないかもしれません。
純粋で真っ直ぐだったからこそ現代人のように性欲を別方向に逸らせず異常にレイプが多かったのかもしれません。


>舞台は昭和30年代の日本。この時代は今のように物が豊かではなく食事とか全くと豪華じゃありません。
しかし、読むかぎり今のように犯罪が少なかったのかな? と思ったりします


これも作品をドキュメントのように扱ってる意見です。
再三、このブログに書いたとおり、昭和三十年代は日本で殺人、強姦などの最も凶悪犯罪が多かった年代です。


私は「三丁目の夕日」は見てないのですが、原作のマンガは決して昔を美化してるわけではないという話はネット上ではちらほら見ます。


また、映画を作った監督さんもあくまでフィクションとして作っておられるようです。

【「昭和の日」を語る】(4)映画監督・山崎貴さん
http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index4322.html

 とはいえ、個人的には昭和をことさら美化する気にはなれません。


 映画の仕事を始めて14年ほどたちますが、ひとつ確信したことがあります。人間の記憶はインチキだということです。過ぎ去ったもの、懐かしいものを美化する。過去の記憶を都合よく書き換えてしまう。


 現実にあり得ないことをいかにも現実であるかのように見せるのが映画だと思うんですが、映画製作というのは、そうした過去を都合よく書き換える人間の特性を利用する仕事でもあるわけです。<中略>


そういうこともあって、「昭和に比べて今は殺伐としていて変な時代だ」という意見には同意できません。今も日本人の大多数はこの映画に登場するような人たちで、日本人の本質は変わっていないという気がするんです。<中略>

いずれにせよ、過去を美化して今の時代に不平を言うような後ろ向きの生き方はまっぴらごめんです。


まあ、私は昭和50年生まれなんで30年代がどういう社会かは知りませんが、正直そんなにいい時代か?と言う気がしてなりません。犯罪も上記のとおりですし、社会科で習う4大公害病が現れたのもこのあたりですし。



「食の安全」がここ最近とりざたされていますが、昭和30年代にはこんな恐ろしい事件がありました。

森永ヒ素ミルク中毒事件-wiki

森永乳業徳島工場が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物・工業用の第二燐酸ソーダ中に不純物としてヒ素が含まれていたため、これを飲んだ1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者も出た。


1955年当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。実際には森永乳業が1953年頃(昭和28年)から乳製品の溶解度を高めるために、安価であるという理由で工業用のヒ素を触媒にして作られた化合物を粉ミルクに添加していた。森永乳業製の粉ミルクの購入には医師の処方箋が必要であった。1955年8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ事件として発覚することとなる。


1956年当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名と言われているが、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、これ以上の患者が発生したことは確実である。また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者は多かった。<中略>


なお、森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年の裁判中のことである。その際、森永側は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた(納入業者はまさか食品に工業用の薬品を使用するとは思わなかったという)。しかし後に、国鉄仙台鉄道管理局がボイラー用の「洗剤」として、森永と同様、日本軽金属が生成した第二燐酸ソーダを使っていたにもかかわらず、使用前の品質検査でヒ素を検出し返品していた事実が明らかとなった。「食品」としての品質検査が必要ないと主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品のボイコット運動が発生した。当時、森永は乳製品の売り上げでは明治乳業雪印乳業をしのぐ企業であったが、裁判が長期化したこともありイメージダウンは拭いきれずシェアを大きく落とした。


<中略>

森永乳業社員教育はまずこの事件から始まる。あまりに徹底している為、入社後すぐにノイローゼになってしまう新人もいるほどだと言う。


別に、今現在の森永乳業を貶めようというつもりはないのでその辺はご留意ください。最後の引用部分にあるとおり、今はきちんとしているのでしょうから。


何より凄いのは、これほどの大事件でありながら「イメージダウンによるシェアダウン」で済んでるところ。実質的な健康被害がなかった不二家船場吉兆が他社の傘下入りしたり、廃業に追い込まれたりしているのに比べると何という大らかな時代か、と言う気がします。(もともとの財務基盤がしっかりしていたということかも知れませんが)今だったらほぼ確実に倒産ではないかと。


おそらく、当時は高度成長期で産業の発展のためなら大企業はかなりのことを大目に見てもらえた時代だったのかと。


それ考えたら、今は消費者の安全はかなり高い水準で守られてるし、本当にいい時代になったと思います(一部、行き過ぎではないかと思うこともあるくらい)。


正直、昭和30年代と言うのは今現在の中国に近いような社会ではないのかなあ、と。公害も多かったし、政治家の腐敗も今よりひどかったのでは。そんな時代に全く憧れを感じないなあ・・・・


「我々、日本人が忘れてきた何かがわかった」とはよく聞くフレーズですが、都合の悪いことは本当に忘れてるんでしょう。山崎監督の言うとおり、人間の記憶は都合よくできているものです。