体験者に聞く太平洋戦争(第二次世界大戦)(世界史)
こういうのは、やっぱりちゃんと語り継ぐべきだと思いますねえ。
1 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/02/21 20:50
幸いなことに体験者の人々は生きておられるので、
今のうちにいろんな話を聞いておいたほうがいいと思うのですよ
いいとか悪いとか善悪論ではなくて
当時の雰囲気をききたい
戦争に出た人でも銃後の守りについた人でもかまいません。
そんな人たちに聞いた情報を交換しませんか?
7 名前:山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 投稿日:03/02/21 23:19
1945年8月6日、呉の実家に居ると外で物凄い音がしたので村中の人間
がそうしていた。キノコ雲が見えたことは言うまでもありません。
話をしてくれた女性は少し前まで広島市内の陸軍の被服工廠(現存)に居て
その日も友人と広島に遊びに行く予定であったとか。
22 名前:銀行員 投稿日:03/02/22 00:20
私の祖父は妻子のいる銀行員だったのですが徴兵されてシナに行きました。
専ら北支でゲリラの掃討に転戦し、その後南に行き、終戦は揚子江
辺りで迎えたそうです。
よく言っていたのは、
自分は、運命論者であると。弾丸がかすめたことが何回かあったそうですし。
爆弾で吹き飛ばされて半月ほど意識不明になったこともあったそうです。
偶然とはとても思えず何か決められたことがあるような気がする。
とのことでした。
23 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/02/22 00:24
21続き
ちなみに、連合国の軍隊の特徴をまとめると、
アメリカ・・・・・・相当にやんちゃなイメージがあったそうだ。
イギリス・・・・・・騎士道邁進しているやつが結構いたらしい。
オランダ・・・・・・ある陣地を日本軍が攻撃しているとき、防
衛側の蘭軍はめちゃめちゃ弾を打ってきたらしい(って言う
か狙ってすらいなかったそうな)が、しばらくすると撃って
こなくなったんだと。何か次の攻撃の準備でもしとるんかい
なと思って警戒していたら、白旗が揚がったんだそうな。
弾が切れたからだったらしい。
31 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/02/22 02:13
これは私の父の話。
近くの海軍の飛行場で勤労奉仕をしていたそうです。
どういうものかというと、掩退壕(飛行機用の防空壕のこと)作りや
滑走路の穴凹埋めです。敵機が来たら退避、去っていったら再び
作業と、その繰り返しだったそうです。「飛行場には紙や竹で作った張りぼての飛行機を置いててね、
敵さんに弾を使わせようとしていたんだろうけれど、敵さんも承知
だったらしく、見向きもせんかったよ」と言って笑っていました。
46 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/02/22 23:45
うちの母方のばあさんは「こりゃ日本は負けるな」と戦争初期から思って
いたそうな。やはり大正時代に教育を受けたから、洗脳教育を受けなかっ
たからみたい。熊や狸が平気で出るような、むちゃくちゃ田舎で、どこ
からそんな情報得たんだろうと思っていたら、ばあさんの家を改築する
際に床下をみたら、結構昔の新聞とか読んでいたみたいなんだよね。
50 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/02/23 01:50
うちのじいちゃんインドネシアで終戦迎えて
捕虜になった。することないんでつり針ばっかり作ってたら
ものすごい数になっちゃったらしい帰国する時船から富士山が見えたときには思わず涙したそうな
69 名前:寒 投稿日:03/02/25 05:44
この町は古くは国府が置かれ、江戸期には後に野口雨情に
「二万石でも武生は城下」
などとよくわからない褒めだか貶しだかわからない文句で謡われた町。大したものは残ってないのですが、それでも古い町並みが残っております。
それは街中が空襲に遭わなかったから・・・と言われますが、実は遭ってます。
福井市が大空襲を受けた日。
空襲警報が鳴り響き、皆が電気を消しカーテンを閉め、空を覆いつくす
B29を息を殺して見送りました。
やがて地平の向こうに赤々と燃え上がる町。
「ああ、福井がやられてる・・・」
やがてもう一度空襲警報が響き、B29が帰っていきます。
皆はまた閉め切って息を殺して、時が過ぎるのを待ちます。
70 名前:寒 投稿日:03/02/25 05:45
ところは変わって武生郊外の西尾という暢気な集落
ここでもやはり、皆が窓を閉め切って、B29の天高い轟音を聞いていま
した。
ところがそこはやっぱり人間です。「うぉ〜見てみたいな」と思う奴がいます。
田舎の郊外の農民、危機感もありません。
そーっとカーテンの隅を開きました。
さすが米軍、その灯りを見逃しません。
ついでに焼夷弾が余っていたのでしょうか、後続のB29が一発だけ、
本当に一発だけ落としたのです。そしてさすが米軍。その焼夷弾はなんとその家に的確に命中。
村人総出で消火にあたり、延焼は免れました、死人もいません。しかし、武生市は確かに空襲を受けました。
・投下数、一発
・被害、全焼一軒
87 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:03/03/02 13:39
んじゃ、俺のじいちゃんの話も。当方埼玉在住。埼玉県の中央からやや北に行ったところです。
埼玉県北部の熊谷市から、南東に10キロちょっとぐらいですね。まあ、よくある田舎町。
で、終戦の直前(一日か二日前だったなかな? 曖昧でスマソ)に熊谷市が空襲されました。
俺のじいちゃんはその時の話をたまにしてくれるんですが…じいちゃん(当時15歳)は空襲の様子を、家の目の前にある土手に上って見ていたそうです。
熊谷に親戚の家があったから、心配になって見に行ったんだとか言ってましたが…
…もうね、アホかとバカかと(じいちゃんスマソ)。
あのなじいちゃん、熊谷が空襲されてる最中に土手なんかに上るなよ。
空襲だよ空襲。町の上空は敵機の進路の近くなんだよ。家の者は全員閉じこもってるっつーのに。「さすがに立ってらんなかった。土手の草むらの中に伏せてたよ」とか言ってましたが、
そんな時に家から出ること自体間違ってるような。勇気があるのか無茶なだけなのか
(多分後者でしょうw)、すげえことをしたもんです。
88 名前:87[sage] 投稿日:03/03/02 13:43
じいちゃんの視線の先、熊谷の空は明るくなってました。炎の赤に加え、B29が落とす
照明弾の白光も混ざり、昼間のようだったとか。
爺:「たくさんの焼夷弾が落ちてくのがはっきり見えた。雨が降るようにサッサッサッサッと。
あの光景はホントに……きれいだったなあ。」
…きれいだったんかい!(まあ、その後「こう言っちゃ不謹慎だけど」と付け加えてましたが)でもポカーンと見ているだけでは済まなかったらしく、
爺:「たま〜に熊谷行く途中のB29が、頭の上の方で旋回して行くのな。あれは怖かった。
割と高空を飛んでたんだろうけど、見つからないかどうかハラハラした。
B29はでかく見えるし、ほんとに怖かった。」(((((((゚д゚;))))))ガクガクブルブル
まあ、幸いにして見つからずに済みました。じいちゃんが機銃掃射くらったりしなくて
ホントに良かった。
89 名前:87[sage] 投稿日:03/03/02 13:45
翌日。熊谷が焼け野原になっているとは子供でも予想がつきます。
向こうの親戚の安否が心配だ。それに祖父は旧制熊谷中学の生徒、被害にあった
友人もいるに違いない。
爺:「それでだ、おじいちゃんは熊谷まで様子を見に行ったんだ。自転車に乗ってな。」…やってくれます。空襲直後の街にチャリで乗り込むとは。
もっとも、じいちゃんが行かねばならぬ理由もあった。六人きょうだい(男4、女2の下から二番目)でしたが、
・長兄は海軍で家にいなかった。 ・次兄はちと体が弱い。それ以上に慎重派。
・末弟はまだ消防。女子供に危険なことはさせられない。
という訳だそうで。でも真相は自分から立候補したんだと思われます。
むしろ親とか周りが止めるのも聞かずに出て行ったようです、他の兄弟の話では。
で、じいちゃんは焼け野原へ足を踏み入れました。焼けた建物がいまだに燃えくすぶり、川には多くの死体。
駅近くの倉庫に貯蔵してあった缶詰は、熱でみんな破裂。女学校の校庭ではいくつも棺桶を作っていた。
でもじいちゃん、恐怖はそんなに感じなかったらしい。それよりも虚脱感のようなものを感じていたとか。
親戚にはその日会えなかった(家が焼け、家人も見つからなかった)ものの、後日無事だと分かりました。
でも市内に住んでたじいちゃんの同級生が亡くなったそうです(一度は避難したが、教科書を取りに家へ
戻ったところ、焼夷弾の直撃をくらったとか……合掌)。こんな俺のじいちゃんは今でもまだ元気です。性格も(おそらく)当時と変わってない。
ヘタレな孫には、貴方のような真似はとてもできません。
111 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:03/03/16 17:12
子供の頃、祖母の家で「開けるな」と言われていた戸棚の奥にある坪を開けたら、白い粉に混じって黒く焼けた骨が入っていた。
祖母に詳細を尋ねたところ、いつもの陽気さは消えうせていて、泣くまで怒られた記憶がある。
うちの村は米軍の上陸地点(沖縄です)で、集団自決も起きてるので、いまだ恐ろしくて詳細は聞けない。
分かっているのは祖母の一家は兄と祖母を残し全滅していることだけです。また、祖父の弟は回転魚雷に乗って特攻。
命は取り留めたものの、片腕を失いました。
去年あっさりとなくなりましたが、さすが元帝国軍人だけあって、迫力のある人でした。
そんな人ですが、法事のたびに米軍の悪口を言いながらも、最後には「餓死を免れただけでも、アメリカーには感謝せねばならん」といつも言ってました。主義や思想など、命のかかった場面ではさして意味はない…そう思わせる重たい言葉です。
140 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/10 23:15
電信隊だった祖父がいます。
高等小学校しか卒業していないので、まわりが大卒だらけで
肩身が狭かったそうです。大卒以外は、同じ部隊には百姓が2人いただけとか。
(入隊前の数学の試験で、一次関数は分かったが二次関数はわからんかったらしい)
中国の奥地にいましたが、地元の中国人とは交流があり、
大卒の兵隊は彼らと漢文(筆記)で会話していたそうです。
祖父が軍から支給された菓子(?)かなんかをとっておいて、
中国人の子供をあつめて配ってやったりすると、
その親からお返しを貰ったりもしたそうです。
あと、どこかの大使館に突っ込んで
祖父が部屋部屋を開けて確認しているとき、
ある部屋に女の人がかたまって震えていて、
またあんまり綺麗な人ばかりだったので、
そのまま扉をしめて報告しなかったそうです。
また、突入前には「絶対略奪はするな」と言って、
突入後も調べられたとか。
182 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/14 12:50
このスレ、最近知りました。書き込みがないようなのでうちの父の話を。
父は昭和18年、15歳の時、陸軍少年飛行学校へ入校。太刀洗飛行場で10ヶ月
訓練を受け、その後、インドネシア/ジャワ島のマラン飛行場にある練成
飛行隊へ配属されました。
当時、インドネシアは結構生活状況がよかったみたいです。というのも、
オランダ軍が簡単に降伏したので大量の物資が残されたままになっていた
らしく、父曰く「訓練の合間に氷を浮べたアイスコーヒーを飲んでいた」
「食事にカレーライスがよく出た」「食後チョコレートが配られた」
「シャワー設備があり石鹸は山のようにあった」とのこと。これらは搭乗員が
優遇されていたということもあり、他の人達は多少状況が違っていた
かもしれませんが、他の地域よりはかなりよかったようです。
だから>>83さんのお祖父さんがいっていることは本当だと思います。
また、「インドネシアは米軍の侵攻ルートからはずれていたので攻撃は週に
1・2回、爆撃機が定期的に爆弾を落としていくだけ」といっていたので戦場
という緊迫感はあまりなかったような印象があります。
訓練は当初こそ射撃訓練をしていたそうですが、後半は専ら体当たりの訓練
ばかり。実戦経験はないといっていましたが、一度だけ実弾を積んだ九七戦で
哨戒飛行をしたことがあるといっていました。
183 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/06/14 12:57
>>182のつづき
終戦間際、沖縄出撃のため、数班に分かれ、飛行機、鉄道を乗り継いでジャワ
から九州の飛行場へ移動。途中、東京で終戦となり、引率の上官が本部に
命令を受けにいったところ「蜂の巣をつついたような状態で話にならん。
取り敢えず、各自自分の本籍地近くの飛行場に行ってそこで命令を受けるように」
と言われ、九州出身者二人、超満員の汽車で佐賀の飛行場へ。そこでも状況は
同じで「自宅待機」と言われ、そのまま実家に帰って来たとのことです。
写真数枚と飛行帽、防火頭巾、銃剣は実家にあります。飛行服は戦後、物が
なかった頃、ペンキ屋に貸したらペンキで汚されたので捨てしまったとのこと。
軍刀はないのか、と聞いたら「あれは私物だから貧乏人の子は持っていなかった」
といっていました。
戦後は警察予備隊(保安隊?自衛隊の前身)の試験を受けようとしたらしいのですが
母親に反対され、百姓するがいやで大工をやっていました。
4年前、ガンで他界。生前、知覧の特攻記念館に行ってみたいか、と聞いたこと
があります。戦時中の話をよくするので当然行きたい、と言うと思っていたら
あまり興味を示さなかったのはちょっと以外でした。(単に鹿児島まで行くのが
面倒くさかっただけかも)。
毎年、8月15日正午、いつも欠かさず一人離れて黙祷をしていました。
220 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/07/06 19:48
私の祖父の兄はインパール作戦に参加し最初のうちに負傷し、
トラックで後方に運ばれたそうです。
実はそれが後方との最後のトラックとなり
彼の友人はじめ、同じ部隊だった人はそのあと全員戦死あるいは行方不明に
なったとしんみりと語っておりました。
305 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/10/13 18:15
ちょっと間の抜けた話で、しかもちょっと不謹慎なのでアレなんだが、祖父から聞いた話。祖父は福岡から朝鮮半島へ、後方の空港での整備士として行ったらしい。
整備士でそれも後方だから実戦の経験は全く無し。血を見ることも少なかったそうだ。
物資も食料も全然問題なくて、むしろ潤沢にあったらしい。
よく現地人と毛布とか時計とか、なんかいろんなものを、朝鮮焼酎(どぶろくだっけな)や餅と交換したといってた。
祖父の口から朝鮮や中国の人への文句とかが出てくるかな、と思ったがそんなのは全然なくて、中国人の商人なんかとは一緒に宴会やったこともあるらしい。
かなり紳士的だったみたい。もちろん非戦闘地域だったからだろうけど。で、終戦になって、いろんなものを山ほど持って引き上げようとしたら、日本への船に同情した人たちの身なりや痩せ方がすごい。
そういう話は聞いてたらしいが、実際目にした時は驚いたそうで。
んで祖父は、「うちは実家が農家だから、とりあえず帰れば何でもある。みなさんで分けてください」
と、持って帰るつもり荷物を全部周りの人たちにあげちゃったそうだ。
実家に帰った時持っていたのは、煙草2箱と焼酎1本w
んで実家帰ったのはいいが、実家にも本当に食べるものがなにもなくて、腰を抜かしたらしい。
必死でやりくりしながらなんとか食べ物をかき集めて家を守っていた祖母もその話を聞いて腰を抜かした。
持って帰ってこいよ、と。血なまぐさい話や悲惨な話をよく聞くし、私もむしろ心のどこか(不謹慎ながら)でそう言う話を期待して祖父から聞いたのが、この話。
祖父は非常に幸運な一例に過ぎないと思うし、こういう例は少なかったんだとは思う。
でも、一口に戦争、といってもいろいろあるものだ、本当に。
520 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:04/01/02 02:28
私の父は、弱兵で有名な「第8連隊」にいたそうです。2年と3ヶ月の軍隊生活で、
戦争が終わったので、助かった思いがしたそうです。2年3ヶ月の間、満州辺りに
約4ヶ月ほどいたそうで、列車の扉を少し開き、手摺のようなところにしがみついて、
小便をしたときに、中国の大地の広さに驚いたと言ってました。遠くの方にある
ものすごい小さな建物が、同じ位置にずうっと何時間も止まっているように見えたそうです。
列車は、ものすごいスピードを上げて進んでいるのは、すぐ傍の景色というか、体に感じる振動等
からも解っているのに、あの小さな建物は、通り過ぎる景色にはならないように見えたそうです。
どこまで行っても同じ画面が続くと、列車が止まっているような気分になるそうだ。恐ろしい
空間があることを知ったといってました。今年80歳になります。中国では、歩いてばかりで戦闘状況に
なったことが無いようです。(今の私が、ここにいるのも、そのおかげですが 何か?)
何かよく解らないうちに内地に戻され、三重で終戦を迎えたといってます。親父の部隊は、本当に
運のよい人ばかりで、ほとんど助かっているそうだ。第8連隊は、ある意味、無敵の連隊ではなかったか?
561 名前:自転車小僧 ◆IBmI/K76EY [sage] 投稿日:04/02/22 22:13
爺さんから聞いた話。
爺さんは台北の国民学校で教師をしていたが、ある日米軍機が学校に向って
低空で機銃掃射をしてきたそうだ。
校舎の外にいる人がおらず被害はほとんどなかったが、機銃掃射をした米軍機
は余りに低空で飛びすぎたため立て直しが効かず校庭にあったイチョウの木に
翼を接触させ校庭に不時着したそうだ。
そこで爺さんはじめ学校の職員、近所の軍人などが飛行機を包囲し、操縦士を
捕獲した。その時の操縦士の姿はサンダル履きでパジャマの上にジャンパーを
羽織っただけと言うラフな格好でガムをくちゃくちゃ噛んでいたそうだ。
爺さんはそれを見て、日本は負けたな。と直感で思ったそうだ。
その後、その操縦士は憲兵にどこかに連れて行かれたが、数日して学校の雲梯
に吊るされていたそうだ。
無論、559の人がカキコしたようにみんな棒でつついたり叩いたりした、と言う
よりするように強制されたそうだ。