KJ-monasouken’s diary

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【不遇】栄光なき天才達の名前を書き込んでいくスレ(世界史)

【不遇】栄光なき天才達の名前を書き込んでいくスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1122031489/

「栄光ある天才の話」は当然の話で面白くもなんともないが、「栄光無き天才の話」は同情を誘うし、「栄光ある凡人の話」は夢を与えてくれる。

「栄光無き凡人」は?当たり前の上に切なくなりますね。

これは、同情を誘うスレ。

55 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/23(土) 20:29:55 0
ニーチェは本当に悲惨だな。
自分の作品が賞賛を浴びていた時には精神障害で、自分への賞賛など
知るよしもなかった。
ある意味、師匠のショーペンハウエルとは対照的な人生。


68 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/26(火) 22:32:52 0

トマス・ニューコメン
ドニ・パパンの真空エンジンが、蒸気の液化による負圧を利用していた
ためにまともに動作せず、それを改良したトマス・セイヴァリもかろうじて
連続動作するエンジンを作ったに過ぎなかったが、逆転の発想で蒸気の
気化による正圧を利用するエンジンを発想し、初めて実用に耐える
蒸気エンジンを完成させた。
実際に、パパンのエンジンは模型でしか動かず、セイヴァリのエンジンも
『実物大の模型』以上の物ではなかったが、ニューコメンのエンジンは
イングランド各地の鉱山で実際に使用された。
そういう意味で、『蒸気機関の発明者』であることに疑問の余地は無い・・・
のだが、このニューコメン機関をジェームズ・ワットが改良して、効率を
飛躍的に増大させたために、世界中のニューコメン機関はワット機関に
瞬く間に置き換えられてしまった。
いまや、蒸気機関はワットが発明した、と思い込んでいる人は多い。


79 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/07/31(日) 00:11:38 O
ジェラルド・マクラレ

ボクシングミドル級史上最強のハードパンチャーとも言われる。確か戦積のほとんどがKO勝ちの上、そのまたほとんどが1RKO。
同じく最強のハードパンチャー、ジュリアン・ジャクソンとの戦いは今でも語り草。同じく天才ロイ・ジョーンズ、ジェームズ・トニーと共にミドル級を支配した。
しかし絶頂期に古豪ナイジェル・ベンとの戦いで、回復不能のダメージを負ってしまう。
序盤、圧倒的に攻めこんだものの、倒しきれず、審判のミスジャッジで何度も頭突きを貰ったあげく、まさかの逆転KO負け。
そのまま病院に運びこまれ、一命はとりとめたものの、視力と聴力を失った上に半身不随…。
本人は何が起こったのか解らず、「暗い…部屋の電気をつけてくれ…」とうめいていたという。


105 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/01(月) 20:03:17 O
武将系の栄光なき天才といえば、石田三成なんてそうとは言えないだろうか。


106 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/01(月) 20:10:35 0
ああ、関が原の西軍の布陣は軍略的に完璧だそうだね。

問題は人心掌握にあったわけだが。


107 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/01(月) 20:18:37 0
そういや、どの国の軍人も
西軍の勝利が当然と思っているらしいね。

どこまでホントかは知らんけど


108 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/01(月) 20:26:36 0
西軍の作戦指揮って三成がやってたのかな?
彼は官僚で実戦経験がなかったんじゃなかったっけ?


109 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/01(月) 20:35:37 0
大谷のアドバイスを受けていたことは否定できない罠。
まあそれも後付の解釈でしかない。
最高責任者がそれを採択したという点でその眼力を認めるべきでしょうな。


110 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/01(月) 21:04:15 0

三成は自分に実戦経験がないこと、汚れ役をやってきたため人望がないこと
前線での武勇がないことなど、自分の欠点をよく知ってたからね。
だからそれらにおいて一流の人間を見出して、誠心誠意で口説いて味方につけた。
また、彼個人には、本当に世の中や主君を思う至誠があって、人間的魅力もあったようだ。
だから彼に近しい人間はみな運命をともにした。
ああいう結果になったのはやっぱり悲運としかいいようがないなあ。


127 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/08(月) 20:04:18 O
グレン・グールド

その演奏が、宇宙船ボイジャーに人類の遺産として搭載される程の天才でありながら、
作曲家としては、ほとんど曲を完成させることができなかった。
そのため、天才的かつ大胆奇抜な解釈で古典の楽曲を再生させていたにもかかわらず、
「自分は本当には何も創造していないのではないか」と相当悩んでいたようだ。
「僕のような人間は、実は誰にも相手にされていないのではないか…」という言葉を残して51歳で孤独のうちに没。


132 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/08(月) 22:04:35 O
>>127
グールドといえばコンサートは一切やらないとか、夏でもコートを手離さないとか、
いつも手袋をして、演奏の時もお湯で手を暖めてたとか
天才ならではの奇行癖が有名だよね。演奏は天才だったが、確かに彼の書いた曲にはロクな物がないらしい。


137 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/09(火) 00:03:33 0
古代ギリシャの詩人サッフォー

世界最初の女流詩人。その詩が同性愛的だといわれ、ほとんど破棄され
現代に残るものは2〜3編の詩と、いくつかの断片のみ。19世紀になって再評価。
死後2500年後に再評価……長杉!ある意味コイツが最強かもしれんw


159 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/10(水) 10:15:52 O
リッチー・ジェームス

イギリスの国民的ロックバンド、マニック・ストリート・プリーチャーズのギタリスト。
幼馴染み達とともにバンドを始め、ギターと作詞を担当した。ロックバンドの歌詞とは思えぬ「西洋文明の罪業と苦悩」をテーマにした文学的かつ衝撃的歌詞は一部で高評価を受けた。
バロウズや三島や谷崎を愛する彼は、バンドのリーダーであり精神的な核でもあったが、「ギタリストなのにギターが弾けない」など音楽面で全く無能なため、バンドプレーヤーとしては酷評される。(ちなみに初期の彼のギターはアンプにつながっていなかった)
楽器の弾ける仲間達に対しても引け目があったようで、バンドが有名になればなる程ステージで恥を晒さなければならないというストレスと、メディア対応のプレッシャー、商業的なノルマを達成できない創作上の悩みもあって、
度々自損行為や暴飲暴食に走り、とうとう神経症からくる拒食症を患い精神病院に入院。
退院後も精神は不安定で、ツアー中に突然「I LOVE YOU」と書き置きを残して失踪。自殺の名所である河のほとりで彼の車が見つかるが、死体はあがらず現在でも行方不明のままである。
精神的なリーダーを失い、途方に暮れたバンドだったが、そこからポップ路線に転向し、皮肉な事に彼がいなくなってから突然全英No.1に輝いてしまい、それまでの中堅からイギリスを代表するバンドに登りつめてしまうのだった。
(ちなみに現在彼らの曲が日本のCMに流れている)


183 名前:イタリアのアマデウス 投稿日:2005/08/12(金) 09:40:04 O
ジョヴァンニ・バティスタペルゴレージ
[1710〜1736]

イタリア・ナポリ楽派不滅の作曲家。
わずか五年余りの期間に『奥様になった女中』『スターバト・マーテル』等の
名曲を残し、26歳で死去。


186 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/08/12(金) 10:04:59 0
>>183
ストラヴィンスキーが発掘して新古典派時代の作曲「プルチネルラ」の元ネタに使ってますね


226 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/17(水) 20:58:37 0
金子直吉(1866-1944)

天才実業家。財界のナポレオン、無から有を生み出す男とも呼ばれた。
でっち奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として、三井物産をしのぐ規模に拡大させた。
台湾を拠点に砂糖製造、鉄鋼、造船など次々と事業を展開し、その舵取りをワンマンでやってのけた。
世界の経済史上でも一人でこれほどの仕事をした事業家はほとんどいないかもしれない。
個人実業家としては、カーネギーやロックフェラー以上の巨人とさえ評されることもある。
1927年、昭和恐慌に巻き込まれ、鈴木商店が倒産した時には世界三大倒産の一つと呼ばれた。
面白いのは金子本人には全く私利私欲が無かったことである。彼は事業はあくまでも鈴木家と国家のためのものであって
私財を蓄えることなど恥であるとかんがえていたようだ。全盛期でさえかれは会社のボロの借家住まいで
倒産後は家を買う金もなく、部下たちが金を出し合って住まいを提供したという。
1944年に亡くなるが、遺産というものが全く無く、所持金は10円しか無かった。


240 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/08/25(木) 22:21:31 0
二宮忠八  (1866〜1936)

明治期の発明家。軍隊に所属中、25歳でプロペラ推進の動力により飛ぶ
鳥形飛行機を作成し、無人飛行に成功。(およそ10メートル)人間が搭乗
可能な玉虫型飛行機の作成を手がけ、軍隊に飛行機の製造のため専門家の
養成と資金の提供を呼びかけるも却下される。
1903年にライト兄弟が初飛行に成功するとの報を聞き、号泣したという。
彼が動力推進の鳥形飛行機を作成した1891年はオットー・リリエンタールが
グライダーで初飛行を記録した年でもあることを考えると、動力推進の機能を
考え実行し、無人とはいえ成功していた彼の先進性が窺い知れる。

後、その先進性が認められ、逓信大臣から表彰されたりしているので
全く「栄光なき」天才とは言えないが、もし十分な資金があれば、彼が
初飛行に成功していたかも知れない。戦前の教科書には載っていたが
最近は知らない人の方が多いでしょうね。

また、もともと叔父が薬屋をしていたこともあり、その後大日本製薬
会社(現在の大日本製薬の前身)に販売員として入社。たちまち頭角を表し、
薬品開発も担った。伯父の手ほどきがあったとはいえ、高等教育を
受けていない二宮が開発スタッフにまでなるのは、当時でも珍しかった
ろう。最終的には常任取締役という最高経営者にまで上り詰め、大阪
製薬の企業に参画して、逆に大日本製薬会社を吸収合併している。

明治の勃興期から昭和の衰退期までを生きた、一人の発明家にして
実業家の生涯でした。

※飛行事故で殉職した人をまつる飛行神社は、彼が建立したものだそうです。


266 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/04(日) 00:01:02 0
大正天皇

優れた感受性を持った詩人。
しかし、時代と国家が彼をナチュラルに生きることを許さなかった。
偉大すぎる父親と周囲の過度の期待に押しつぶされ、健康を害し
挙句の果てに知恵遅れとまで汚名を着せられ、その生涯を無かったことにされる。
がしかし、彼こそは日本に現れた「最初の現代人」であった。
思ったことを包み隠さず言う、感じたことを正直に吐露する、家族を愛し一夫一妻を貫く…
果たして彼が現代に生きていたら、同じように汚名を着せられただろうか?


268 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/09/04(日) 03:51:11 0
私も大正天皇を推薦したい。
説教臭のない歌を詠むことは、明治天皇にも昭和天皇にも不可能だった。
近代の天皇では、ただひとり、大正天皇だけが詠むことができた。

釣り船もあまた浮かべり近江の海 比良の高嶺の晴れ渡る日は

大正天皇を天才と言うにはちょっとあれだが。むしろ天才と紙一重の方・・・?
でも人間的にはいい人っぽい→大正天皇

294 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/09/09(金) 20:59:33 O
ロザリンド・フランクリン

遺伝子研究学者。早くから遺伝子の高解像度のX線撮影に成功し、この分野の研究をリードしていた。
二重らせん構造を初めて提唱したのも彼女である。しかし、仲の悪かった彼女の上司のウィルキンスが彼女のデータを勝手に持ち出し、他の研究者に渡してしまう。その相手が遺伝子の構造を解き明かした学者として歴史に名を残しているワトソンとクリックである。
後にノーベル賞を受賞するワトソンとクリックの研究は、そのフランクリンの非公開データを下敷にしていた。
フランクリンはDNAの塩基配列の謎までは解けなかったものの、彼女の研究がなければワトソンとクリックは決してDNAのモデルを構築できなかったであろう。しかし彼らはフランクリンのデータを流用している事をフランクリン本人には一切伝えなかった。
フランクリンは1958年に栄光なきままにガンでこの世を去った。享年37歳。ワトソンとクリックがノーベル賞を受賞する4年前である。
ノーベル賞と「遺伝子の謎を解き明かした」という栄光と名声はワトソンとクリックの頭上に輝いたが、その後にフランクリンの死と彼女の研究の事実が知られるようになってから、
人々は、科学者の研究におけるモラルとはなにか、という件に関して延々と議論することになったのだった。

299 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/09/10(土) 12:49:57 0
ホーレス・ド・ヴィヤー・コール(前半)

1910年2月7日ウェイマス湾で演習中のイギリス海軍旗艦に、1通の電報が
届いた。
差出人は外務次官サー・チャールズ・ハーディング。
その驚くべき内容とは、
「アビシニア皇帝陛下並びに皇太子殿下ご一行が、本日ウェイマス港を
ご視察あそばされるため、至急準備ありたし」
受け取ったメイ提督はビックリ仰天、大慌てで皇帝陛下御一行様歓迎式典
の準備に取り掛かった。
午後2時、ギリギリのところで(表面上だけ)カタチを整え終わったウェイマスに
特別列車が到着、御一行様を先導するのは、外務省ハーバード・チョオモンドレイ氏
であった。
提督以下艦隊の全員が緊張して整列する中、ご一行は静々と現れ、提督の歓迎の辞
に対して、優雅なしぐさで感謝の意を表明した。
さらに、英国を代表する艦隊の威容を目の当たりにした皇帝陛下は拳を振り上げ
「ブンガ ブンガ!」とのたまわれた。
すかさず通訳のカウフマン氏が
「アビシニア語の『男言葉』で『素晴らしい』という意味です」と補足する。
提督がありがたいお言葉に感涙に咽んでいると、続いて内親王殿下が
「チャック アチョイ!」とのたまわれた。
「アビシニア語の『女言葉』で、これも『素晴らしい』という意味です」と、今度は
チョオモンドレイ氏。

いや増す感動に最早言葉も無い提督以下艦隊一同・・・のはずであったが、

・・・以下、後半へ続く


300 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/09/10(土) 12:51:21 0
ホーレス・ド・ヴィヤー・コール(後半)


・・・以下、前半から続く

いや増す感動に最早言葉も無い提督以下艦隊一同・・・のはずであったが、
実は、歓迎委員会の中に一人だけ、感動するどころか顔面蒼白で恐怖に
卒倒しそうになっている人物がいた。
彼は艦隊の中堅仕官だったが、先の「チャック アチョイ!」と叫んだ内親王
自分の従姉妹のバージニア・ウルフであることに気づいたのである。
しかし、正式な歓迎式典が始まってしまっている以上如何ともしがたく、
結局『アビシニア皇帝御一行様歓迎式典』は、滞りなく執り行われ、
艦隊全員の歓喜の声に送られて、ご一行は専用列車でロンドンに向けて
出発された。
ま、要するに『物凄く手の込んだ』悪戯だったわけだ。
当時の金額にして実に4000ポンドを投じて、物凄い悪戯を仕掛け、栄光ある
ロイヤルネイビーをまんまとおちょくってしまったのである。
この事件で首謀者であったのが、自称外務官僚チョオモンドレイ氏、
その正体はホーレス・ド・ヴィヤー・コールなのであった。
コールは、これ以外にも山のような逸話を残しているが、全て基本的には
上記の様なデンで、『ヒトを騙すためなら才能も財産も惜しげなくつぎ込む』
というのが、彼の人となりそのものであった。

彼は、幾多のエピソードによって証明される『天才的な発想』を持ちながら、
この才能を『ヒトをからかう事だけ』に使い、死んでいった。
まさに『栄光なき天才』といえよう。


306 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/10(土) 22:55:35 0
鈴木梅太郎1874〜1943(明治7〜昭和18)

農芸化学者。東京帝大を卒業後、クワの研究などで実績を積み、ドイツ留学後は盛岡農林学校で、当時深刻な社会病であった脚気の治療法について研究するようになる。
鈴木はニワトリの白米病と脚気の共通点に気づき、ニワトリに米ぬかを混ぜた餌をやると白米病が治ることから、米ぬかに脚気に効く未知の成分が含まれていると推定、
研究の結果それをついに発見。それが後に「ビタミンB1」とよばれる成分であった。
鈴木はその成分を「オリザニン」と名づけ論文を発表するが、日本国内で彼の発見は完全に黙殺されてしまう。
ビタミンという成分を名づけたのはポーランドカシミール・フンクである。フンクの論文発表は鈴木のそれの8ヶ月後。
もし鈴木がヨーロッパで論文を発表していたら、今頃我々は「オリザニンA」とか「オリザニンC」とか呼んでいたかも知れなかったのだが…


308 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2005/09/11(日) 02:46:22 0
>>306
理化学研究所ではそれなりの職を得ていたので
「栄光なき」とまでは言えないと思う。
世界的名声をつかみ損ねてちょっとかわいそうなのは
事実だが。

ノーベル賞の田中さんも英語で論文を発表していなかったら今でも普通のサラリーマン・・・

336 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/09/17(土) 22:21:31 O
長野泰一

戦後まもない頃、資材や施設の無い時代、近所の農家にヨードチンキと野菜を交換してもらったりしながらコツコツと研究を重ね、効果的なガン抑制因子を発見し、学会に発表するが無視される。
後にヨーロッパはドイツで同じ物が発見され、「インターフェロン」と名付けられた。
長野は生涯「インターフェロン」と聞くと嫌な顔をしたという。


注:長野は北里研究所での研究の功績で国から勲章を貰ったりしてるので、必ずしも栄光が無いわけではない。

428 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2005/11/08(火) 21:23:00 O
ヘティ・グリーン

19世紀のアメリカで名を轟かせた無敵の女相場師。ウォール街の魔女の異名をとった。
1835年に富豪のクェーカー教徒の娘として生まれる。子供の頃から天性の経済センスの持ち主だったらしい。加えて幼い頃から目の不自由な祖父に経済新聞を読み上げさせられたりしていたために彼女のカンは更に研ぎ澄まされていった。
1860年に両親が死去、莫大な遺産を相続する。そしてその翌年に南北戦争が勃発。
当初は南軍が優勢であったが、ヘティは最終的には北軍が勝つと見込して、二束三文だった米公債を両親の遺産をつぎ込んで買い叩いた。
するとその5年後に彼女の予想通り北軍が勝利を収め、公債は暴騰。賭けに勝った彼女は莫大な利益をあげ、一躍アメリカ有数の大富豪となる。
だが、そうした一方で彼女が異様だったのは、この時代の女性としてはおそらく世界一の資産家となりながら、同時にギネスが公認するほどにケチな倹約家だった事である。
ほとんど洗濯しない一張羅に身を包み、水も火も徹底的に倹約し、朝食のお粥も温めずに食し、ボロの安アパートを転々とするホームレスのような生活だったという。
それでいながら大陸横断鉄道に先行投資するなどしてビジネスには勝ち続け、資産をどんどん増やしていった。
1867年には大金持ちと結婚するが、抜け目なく財産の管理は完全に別ける契約をしておき、後に夫が事業に失敗して破産しても全く影響を受けなかった。あだ名通り魔女のような人物だった。(続く)



429 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/11/08(火) 21:28:48 O
(続き)
だが、ビジネスに勝ち続けても人生は難しい。彼女には息子と息女がいたが、ある時息子のネッドが足に怪我をした。しかし医療費を惜しんだヘティはなかなか病院に連れていかなかった。
子供を愛していなかった訳ではなかったが、その愛情を表現するのに金がかかる事を彼女の心が許さなかったのだ。
あまりに息子が泣くので、仕方なく慈善施設の無料診療所に連れていくがその時には既に手遅れで、ネッドは壊死した足を切断する羽目になってしまう。
この事が世間に知れるとヘティは「悪魔の様な女」とアメリカ中から叩かれた。(それも仕方がないであろう)
その後も彼女は株式投機などで資産を増やし続けたが、誰からも愛されず信用されず孤独な晩年を過ごした。
息子のネッドは親を反面教師にしたのか、それとも復讐の意味合いもあったのか、ビジネスに全く興味のない放蕩息子に成長し、1916年にヘティが寂しい最期を迎えた後も散財を続けた。
息女の方は慈善事業に熱心で、ヘティの遺産を貧しい人々に分け与えたという。
全ては還るべき処に還っていったということだろうか。

457 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/11/20(日) 14:49:23 O
マイケル・ヴェントリス (1922-1956)

イギリスの建築家。
14歳の時に、アーサー・エバンズがクレタ島から発掘したヨーロッパ最古の文字である「線文字B」に出会い興味を持つ。以後独学でこの解読に取り組む。
本業はあくまで建築家で、解読はただの趣味だったが、天才的な分析力を発揮して、解読は不可能と言われた古代文字を1952年についに解読。「線文字B」が最古のギリシャ語である事を証明した。
しかし本業の方では挫折し、やりたい仕事ができない事を悩んでいた。
56年9月のある日、深夜に独りで車に乗って外出し、路駐してあったバスに突っ込んで即死。
遺書はなかったが、恐らくは自殺であったと思われる。まだ34歳だった。


508 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/12/19(月) 15:06:17 0
飯田覚兵衛、1565 - 1632

加藤清正の家臣。
武勇に優れ、加藤家三傑に名を連ねるが、
実は当時最高建築の天才だった。築城工事を得意とし、
清正の命により熊本城築城。名古屋城江戸城の普請にも奉行として参加。
また、朝鮮出兵の際には晋州城を攻略するために日本最初の戦車とも
いわれる亀甲車を考案。晩年は清正の息子忠広が改易されたのを
きっかけに京都に隠棲、不遇な晩年であった。

死後二百年ののち、熊本城は神風連の乱西南戦争
戦火に晒されるが、いずれも猛攻にもかかわらず城は落ちなかった。
西郷隆盛は「官軍に負けたのではなく、清正公に負けた」とうそぶいたと
伝えられるが、彼の名を言うものは居なかった。

しかもこの熊本城攻防戦が新政府をして、古城の価値を再認識させる
きっかけとなり、破却される予定だった日本の古城を守る結果ともなった
ことを考えれば彼は自ら築いた熊本城だけでなく、日本の古城すべてを
守ったといえるかもしれない。


532 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/10(火) 23:57:11 0
シュリーニヴァーサ・ラマヌジャン


533 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/11(水) 21:33:26 0
ラマヌジャンはなんか変人なエピソードがあったような


535 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/12(木) 22:23:30 0
>533
港湾局の官吏に就職したけど一日中本来の業務そっちのけで数学の証明ばっかしていて、
なのに回りの人間は「彼は神から才能を与えられている」と言って一切そのことを非難しなかった、
ってこりゃインド人が変人だってエピソードだな。


537 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/14(土) 00:48:03 0
>>533
病気の見舞いにきた友人が話題づくりに
「そういやここに来る途中で見た車のナンバーが○×でさーつまんない数字だったよ」
って言ったら即座に
「とんでもない、それは面白い数字だYO!!!」と言ってその場で証明を始めたとか…


538 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/14(土) 03:02:51 0
>537
その数字は1729。
1729 = 12^3 + 1^3 = 10^3 + 9^3
と、二つの正の整数の三乗根の和として二通りにあらわすことが可能な最小の数。
この話を振ったのは彼の最大の理解者であった、やはり一流の数学者ハーディーで、
ひょっとすると当時心身ともに弱り鉄道自殺すら図ったラマヌジャンがまだ数学の才能を
失っていないのか心配になって試したのかもしれない。


548 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2006/02/07(火) 04:42:00 0
>>533
ラマヌジャンといえば9才の嫁をもらって、晩年は嫁姑戦争に疲れて死んだ
エピソードが最強。


660 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/07/12(水) 22:57:25 0
 中国人の陳雅山は、どうだろうか?
清の時代に生きた相場師で、当時の清は銀本位制で銀相場があり、
若い頃に相場師を志して、死ぬまで相場を張り続けて、生涯で
稼いだ金額は、一説では三億両(テール)とも言われる。
 これは、日清戦争に敗北して日本に払った賠償金と同額で、
個人が相場で稼いだ金額としては、ビックリ仰天どころの
騒ぎではない、正に天文学的数字だが、それにも増して驚きは
生前は相場で大儲けしたどころか、相場をやっていると言う
噂さえ、全く立たなかったそうで、全ては死後に判明したそうで、
王侯にも勝る贅沢も可能な資産を保有しながら、全く無名の
一市民として生きた事は、正に『プロ中のプロ』とは何かを
我々に示唆して、尊敬に値する。


719 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/08/19(土) 12:40:05 0

八木秀次

1925年、八木秀次によって世界初の指向性アンテナの原理が発見され、八木
アンテナが発明されました。いまでは、どの家にもあるテレビアンテナにな
っています。3本の素子を基本にして平行に並べ電波を効率良く受信・発信
する構造のアンテナです。
簡潔にして無駄のない八木アンテナは、はじめからほとんど改良の余地のな
い高い完成度をもち、超短波用アンテナとして外国の模倣を許さないもので
した。
八木アンテナは、八木秀次が私財を投じてかろうじて特許を取得したものの
当時の日本科学界は西洋崇拝が強く「日本人の発明で重要なものはあり得な
い」として当時の学界では受け入れられませんでした。
八木アンテナは一部に知られただけで、それを記載した八木の論文は、日本
で忘れられました。その特許も国から延長が認められず消滅してしまいまし
た。そもそも*テレビやアンテナについての当時の日本の研究・開発は、世
界的にリードしていたにもかかわらず科学界や国から認められず埋もれてし
まい、大変惜しいことでした。
特に精神主義をふりかざす軍人は、八木アンテナレーダーの有用性を頭から
認めませんでしが、八木アンテナの論文は、海外で評価され超短波用高性能
アンテナとして認められていきました。
(*1926年に高柳健次郎がブラウン管式テレビの実験に成功している)


720 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2006/08/19(土) 12:43:47 0
1941年太平洋戦争が起き、シンガポールを攻め落とした日本軍は、そこのイ
ギリス軍のレーダーアンテナが八木アンテナであると知らされました。アメ
リカ軍も八木アンテナを装備し、攻め寄せる日本の飛行機を300km前から
レーダーでキャッチし迎撃しました。闇夜でもレーダー射撃で正確に日本艦
を撃沈し、日本軍はやっとレーダーの威力とその重要性に気付きました。
しかしもう後の祭りです。日本はアメリカに破れ、無条件降伏しました。
八木アンテナアメリカのレーダー等に使われ日本が負けたことについて当
時の世間は、発明者の八木秀次国賊よばわりされました。
八木秀次の世界的な発見・発明である八木アンテナを敵である英米は認め、
それを活用し戦いに勝利しました。反対に日本は、日本人である八木秀次
発明を理解せず軽視しその結果敗北し、挙げ句の果てによけいな発明をした
とばかりに冷たくしました。自国の優れた発明を使いこなせなかったことを
棚に上げて八木秀次個人を責めるのは、天につばをするようなものです。
当時の政府要人や帝国陸海軍は、大和魂などの精神主義に陥っていたため先
端科学を理解できず惨禍を招いてしまったのでしょう。そしてそれは、日本
人の短絡性と同時に当時の社会の半封建的後進性を示しています。

まだ、この話には余談があります。
八木アンテナの特許を政府は消滅させてしまい、また外国特許保有の財政支
援もせず冷遇した為、日本の八木アンテナ特許権は失われてしまいました。
ところが戦後まもなくテレビが世界中に普及した時、八木アンテナも同時に
全世界に普及しました。VHFテレビ電波を受信するには八木アンテナ以外にな
いのです。もし、この時代この特許を日本が確保していたらおそらく世界に数
億台のテレビと同数売れた八木アンテナから莫大な特許料が日本に入り、日本
の戦後復興は大いに助けられたことでしょう。
もし、八木アンテナ発明と同時期の高柳健次郎の電子テレビ実験成功を評価し、
研究支援を行ってテレビの発明・実用化に成功していたならば、日本は、テレ
ビとテレビアンテナの両方を発明し、その恩恵は測り知れないものになってい
たでしょう。

こういう話を聞くとちと寂しくなる。天才が居ても評価されにくい国なんだろうか・・・

今はそんなことはないと思いたいところですが。