KJ-monasouken’s diary

昔「モナー総研」と言うスレ紹介ブログやってた人のブログ。いまはTwitterの活動がメイン。

織田徳川連合軍VS今川氏真(一人だけ)(三国志・戦国過去ログ)


前記のスレでも大人気の氏真スレ。

1 名前:ないぶ 投稿日:01/09/10 23:21
もちろん蹴鞠での勝負ね


6 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/09/10 23:43
氏真の蹴鞠は超一流だったな。
現代ならナカータ並みかもな。


7 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/09/11 00:32
さすが王国(日本の)出身!!
静岡はブラジルよりも歴史の古いサッカー王国!!


8 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/09/11 00:35
馬鹿がうつると言って氏真スタジアムに現れず不戦敗。


9 名前:ほうじょう[age] 投稿日:01/09/11 00:38
やっと謎がとけた。
静岡は、世界最古のサッカー王国だったか。


31 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/09/14 00:01
親父(義元)を消し去った、信長の前で
得意げに蹴鞠を披露したんだっけな。
ある意味すげーな>氏真


32 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:01/09/14 01:14
>>31
またーりしてるよね、氏真。


46 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/09/23 02:23
蹴鞠の達人なら、運動神経抜群のはず
その才を武芸でなくスポーツにかけた
敵討ちなど非合理的なことはやらない。
氏真はまさに日本史上最初のさわやかスポーツマンシップをもつ近代人だ!


48 名前:↓現代ならこなっていたはずだ(藁) 投稿日:01/09/23 13:23
「いくでおじゃる〜」
氏真くんの強烈なボレーシュート
ゴーーーーーール〜、おおっと、ネットを破った〜
氏真くんのボレーシュート、ブラジルゴールにつきささりました〜

「そうなども決められてたまるか〜」
信長くんするどいパンチング、しかしとどかない
ゴーーーーール、
てきの8番のシュートが全日本のゴールにつきささりました〜


61 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/10/01 01:19
幸村君「大阪城外からのシュートは決めさせん!」
天才氏真くんは心臓病のため、30分までしかプレーできません。


76 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/11/14 12:48
実際のとこ蹴鞠も上手かったんか?
バカ殿でも一応は殿様だから皆も「殿、流石でござる」とかべた褒めして
社長相手の接待ゴルフ状態だったと思う。


77 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:01/11/14 13:47
>>76
落ちぶれた後でも十分蹴鞠で食っていったからそれはない。
確か秀吉の前でもその技を披露したんだったっけ。最後は
出家したと思うけど。新田次郎の『武田信玄』に載っていた
話です。


79 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:01/12/02 17:00
公卿の中でも誰も氏真につづけなかったらしい


94 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:02/01/26 19:23
氏真は剣の達人だったらしい


114 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:02/02/16 00:08
>>94
塚原卜伝に師事した模様。直に允許も受けたと記憶しているが。
たしか、作家の秋山駿が、氏真を主人公にした小説「天下を汝に」
でテーマとしていた。


125 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:02/03/08 22:16
氏真は、ある意味信長より革新的な考え方を持っていたかもな。
仇の前で蹴鞠披露なんて、当時の武将の美的感覚から言えば到底できるわけがない。

500年近く生まれてくるのが早かった。
(って、これ以上フォローのしようがねぇよ)


126 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:02/03/08 22:26
同じ塚原卜伝に師事した人でも足利義輝
北畠具教の最後の壮絶な逸話と比べると氏真は本当にほのぼのしてるね。


127 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:02/03/09 14:37
>>125
500年後に天下統一達成じゃ!!(天皇杯優勝)

>>126
正妻は北条家から輿入れして来た方だが、夫婦仲がとても良く、お互い長生きしたそうな。
血筋は品川姓を名乗り維新まで高家として続いたが、明治期に断絶。


209 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:02/07/07 15:27
いまいち豪快な武芸者なのか、軟弱なお公家趣味な
ボンボンなのか判断つかないな。


211 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:02/07/09 19:55
>>209
でも、天正・文禄年間のころは仕官活動せずに
京都で文化人として大人しく暮らしていたくらいだから、
少なくとも戦争は好きじゃなかったんだろうね。


272 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:02/09/12 18:04
天下などと言うものに氏真は興味を持てず、町の子供と蹴鞠をし、
蹴鞠大国駿河を築いたのは他でもない氏真。
だから静岡からサッカー選手で出る事が多いのだ。


311 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:02/10/16 16:20
『日本庶民生活史集成』に納められている氏真さの和歌集を見た。
この本は私の中にあった氏真のイメージを一変させたと言っていい。
この短い和歌集の中にいる氏真は、学識溢れる風流人でありながら
剛毅な剣豪であり、しかも風のように自由なさすらい人だった。
したたかで、しかも優しく、何よりも生きるに値する人間である
ためには何が必要であるかを、人間を人間たらしめている条件を
よく承知している男だった。確かに没落貴族としての悲しさは仄かに
匂うけれど、そこには一片の感傷もなく、人間の本来持つ悲しさが
主調低音のように鳴っているばかりである。
 今川氏真という、戦国の時代をしたたかに、だが自由に生き抜いた
一匹狼のイメージが私の中で固定したのだった。


312 名前:転載 投稿日:02/10/16 16:36
今川氏真(1538〜1614)

1538年、父・今川義元、母・定恵院(武田信虎の娘)の間に生まれる。
義元の父、氏輝の後継者紛争が起こったときに、反義元派の堀越氏延と飯尾氏を滅ぼした。
桶狭間の戦いで義元が死亡し、今川家の家督を継ぐ。(事前に家督継承したとの異説あり)
信玄が義元以来の同盟を一方的に破棄したのに対し、塩の輸送を停止する経済制裁を実施。
また、その他にも五か条の定書を命じたり、富士大宮に楽市の朱印状を発行するなど、様々な内政実績を残している。
しかし、その甲斐無く信玄・家康同盟軍に遠江駿河を侵攻され、義父である北条氏康のもとへ逃走した。
この頃、家臣の富士蔵人や三浦左京亮に書状を与え、暇を出した。事実上の戦国大名今川家の終焉である。
その後、氏康が死去し氏政が当主になり北条・武田同盟が成立すると、徳川家に身を寄せる。
家康から諏訪原城を与えられるも、自ら流浪の身となる。
京都で「完門」と号し、そのころ、信長と相国寺で謁見。その後、数回信長に既に名人級であった蹴鞠の技を披露している。
晩年は剃髪して「宗?」と称し、幕府から禄と屋敷を与えられ京都四条から江戸品川に移り、教養人として幕府関係者に和歌や蹴鞠を披露した。
その後も、品川において今川の血筋は途絶える事無く続いている。
1614年、品川で死去。享年77歳。和歌の鬼才として世に知られ、生涯詠んだ和歌は1700首にも及ぶという。

本当の名家の出身っつうのは、権力や金には恬淡としたところがあるのかも。