KJ-monasouken’s diary

昔「モナー総研」と言うスレ紹介ブログやってた人のブログ。いまはTwitterの活動がメイン。

流石にこれはどうだろう。


国立大授業料、私大並みに 財務省、5200億円捻出案
http://www.asahi.com/national/update/0519/TKY200805190264.html

国立大授業料、私大並みに 財務省、5200億円捻出案
2008年05月19日21時57分

 財務省は19日の財政制度等審議会財務相の諮問機関)で、国立大学予算で授業料引き上げなどによって最大5200億円を捻出(ねんしゅつ)できるとの試案を発表した。生まれた財源を高度な研究や人材育成、奨学金の拡充に充てるべきだとの主張も盛り込んだ。国から国立大に配る運営費交付金(08年度予算で約1兆2千億円)の増額論議を牽制(けんせい)する狙いがあると見られる

 試案は、授業料を私立大並みに引き上げることで約2700億円、大学設置基準を超える教員費を削ることで約2500億円の財源を確保できるとしている。「義務教育ではないので、一般的な教育自体のコストを(税金で)補填(ほてん)することには慎重であるべきだ」とし、「高等教育の機会均等は、貸与奨学金での対応が適当」とした。

 財政審の西室泰三会長は会合後の記者会見で、この提言を6月にまとめる意見書に採用することは否定したものの、教育を受ける機会を損なう恐れもあり、論議を呼びそうだ。西室氏は「国立大学の授業料は個別に決められるが、相変わらず横並びだ」と指摘し、各大学に自主判断で授業料を見直すよう求めた。

 この日の財政審は、与党議員らから増額要求が強まっている教育、途上国援助(ODA)の予算について「財政状態からみて増やす状況にはない」との認識で一致。「11年度に基礎的財政収支を黒字化する政府目標の堅持が必要」との考え方を意見書に盛り込むことも決めた。


いやー、基本的には私は政治ネタで将来を悲観することが他のブロガーに比べて少ない方だと思うのですがね。
日銀総裁ネタではかなり嫌になったが、まあ将来を悲観するほどでもない)


例えばネット界隈で大騒ぎになってた『青少年の健全な育成のためのインターネットによる青少年有害情報の閲覧の防止等に関する法律案』にも、「子供を守るとかいってるけど、ルールも守れないお子様が暴れるのはこっちも不快だし、お子様がいなくなるならそれはそれで結構なことだね」と半分本気で思ってたくらい。


(まあ、しっかりした子供もいるし、いい年してもアレな大人もいるので一概には言えないけど。あと、そのためのツケがこっちに回されるのも嫌なので、完全に本気ではなく「半分本気」。親がちゃんと管理してほしいもんだ)


でも、流石にこの試案はどうかと思うよ。貧乏な秀才が経済的理由で大学進学をあきらめることになりかねないし、それは国家的な損失としか思えない。教育は国の最重要課題として考えるべきだし、安易に予算を削るべきじゃないと思う。大学と言う存在には無駄もあるかもしれないけど、学生の負担を増大させるのは違うと思う。


奨学金とかいっても借金だしなあ。ないよりはマシとは言え。金持ちのバカ息子が大して勉強もしないで気楽な人生を歩むのに比べて、あまりに希望がなさすぎるじゃないか・・・・


そもそも、「教育自体のコストを(税金で)補填(ほてん)」と言う発想がおかしい。教育はコストではなく将来への投資。国家としての人材育成をどう考えているのかさっぱり分からない。


そんなことで財源確保するくらいなら、消費税上げる方がまだ納得できる。今の負担に耐えればいいだけで、少なくとも将来を失うことはない。


まあ、「増額論議を牽制」が目的で、単なるブラフであれば良いのですがね。


追記:

以前、大学不要論ともとれるようなエントリを書いたこともある私が上記のようなことを書くのも何ですが。


こういうサイトがあるらしい。


学校は人的資本を形成するのか?
http://keijisaito.info/econ/jp/gjk/j1_econ_education.htm

大学などの高等教育は良くも悪くも、就職や賃金に結びついています。近代経済学では、就職や賃金に関わる高等教育のとらえ方として、人的資本論シグナリング理論の二つの理論があります。それぞれの理論における進学・高等教育の意味は、以下の表のようになっています。


人的資本論
教育機関で学ぶことで知識や技能を身につけ、生産性⇒賃金が上がる。


シグナリング理論
良い教育機関に入学・卒業することが頭の良さ、真面目さ、努力家の証明になる。
( 生産性⇒賃金の上昇は不要で、もともと優秀な人を選別する。)

要は、私の場合「人的資本論」的な価値がないことについて「大学なんていらない」と言うことを書いたが、「シグナリング理論」的な価値は認めているので、経済的理由により本来大学に行ける能力を有している人間が排除されることを懸念していると言うことになる。


「人的資本論」的な価値に比べて「シグナリング理論」的な価値が肥大することは好ましくないとは思うが、就職活動期の面接のみで個人の資質を見抜くことは困難なので、学歴のシグナリング的な価値は完全になくなることはないだろう。ただでさえ、経済的に不遇な人間はハンデを背負ってるのに、「学歴」シグナルさえつけさせてもらえないのはどうか。あとは「専門資格」シグナルくらいか?それもただとは言えないしな。


また、「人的資本論」的価値を見いだせなかったのは私自身が大学学部時代に怠惰であった面も大いにあるので、大学4年間を有意義に過ごせる人もたくさんいるはず。


世の中はもともと不公平に出来ているとはいえ、経済的理由だけで大学に行けない人が出てくるのはおかしいな、と。